皆さん、こんにちは。
充実人生コンサートの安納一郎です。
今回は小生がどうして歌を
歌うようになったか、思いつくまま
書かせていただきます。
「オジイサンの思い出話」ですから、
さらりと読み流してください。
小生が生まれたのは昭和22年、
戦後の食料難がようやく
落ち着き始めた頃です。
農村地域なので食べる物に困ることは
ありませんでしたが、まだまだ
貧しい時代でした。
「衣食足りて礼節を知る」
と言いますが、芸術もまた然り、
一部の人を除いて音楽への関心は低く、
近所でピアノがあるのは音楽の先生か
会社の社長の家くらいでした。
小生の家は、戦前、祖父が東京で
教師をしていた頃に買い集めた
大きなチャブ台や外国の辞書などが
あったのですが、なぜか音の
出るものは一つもありませんでした。
その頃は蓄音機なども流行っていた
はずですが、我が家にあるのは
戦前から伝わっている古いラジオだけです。
「大本営発表」とか「終戦の玉音放送」
などを聞いたやつです。
こんなオンボロラジオで
オーケストラを聴いたって、
バイオリンはノコギリの目立て、
ティンパニーはバケツの底を
引っ叩いている、としか
聞こえませんから、家で
クラシック音楽を聴くものは
誰も居りませんでした。
東京で高価な道具や本を
買い集めた祖父が、なぜ楽器や
蓄音機には目もくれなかったか。
それは、祖父が酷い音痴で
歌がまったく歌えず、音楽に関心が
無かったからです。
世間で音痴と呼ばれる人の中でも、
本当の音痴は僅かだといわれますが、
祖父のは自他共に認める正真正銘の
音痴でした。
どんな歌を歌ってもメロディーが
分からない、ほとんど節がないのです。
材木だったら節の無いのが
高級ですが・・・。
小生は、幼い頃に実の父を亡くし、
この祖父を養父として育ちました。
祖父は父親として小生のことを
熱心に教育してくれていたのですが、
ある時、何を血迷ったか
「歌を教えてやる」と言い出したのです。
それも童謡や小学唱歌ではなく
「箱根の山は天下の嶮」とか
「嗚呼玉杯に花うけて」といった
大人の歌です。
その時の小生はおそらく3歳くらいで、
一体どのように教えてもらったのか
記憶にありませんが、中学生くらいに
なって楽譜を見た時に、かなり正確に
覚えていてびっくりしたことがあります。
歌詞は子供なりにまったく意味も
分からず丸暗記したのでしょうが、
問題はメロディーです。
なにしろ祖父の歌から節を覚えるのは
作曲するより難しいのですから、
3歳の子どもにできるはずがありません。
もしかしてオレは天才か?
とんでもない、実は、ここには
陰の功労者がいました。
それは同じく養母として小生を
育ててくれた祖母です。
祖母も東京で教師をしていたので、
ピアノを弾いて子供達に歌わせる
くらいのことはできたようです。
祖父が小生に歌を教えるといった時、
祖母は大いに狼狽したそうです。
祖父の音痴が小生に感染しては一大事。
聞くところによると、小生の
亡くなった実父も相当な音痴だったとか。
これに小生が続くと、安納家は
親、子、孫、三代に渡る音痴の
家系となってしまいます。
それだけは絶対に避けなければ
ならない。
何とか自分の手で正しい歌を
教え直さなければならない。
隠れキリシタンの「経消し」の
ようなものですね。
経消しとは、昔の檀家制度の下で
お葬式には必ずお坊さんを
呼ばなければならない、そのため
葬儀の間、別の場所で密かにお経を
消して改めて死者が天国に行くための
祈りを捧げることだそうです。
そして、ここから祖母の「経消し」
ならぬ「祖父の歌消し」の努力が
始まりました。
祖父から教わったと思っていた
「箱根の山」も「嗚呼玉杯に」も、
実は祖母が教えてくれものだったのです。
当時、田舎では風呂もカマドも
薪で焚いていたので、祖母は
火の番をしながら色々な歌を
歌ってくれました。
多くが戦前の唱歌や童謡でした。
祖母も音楽学校を出たわけでは
ありませんが、教師になった
ばかりの頃、当時の古臭い
文部省唱歌にあきたらず、
「赤いくつ」などの新しい童謡、
当時の学校では「子供の流行歌」
などと嫌っていた歌を、校長らの
反対を押し切って音楽に時間に
歌わせていたというくらいですから、
歌への思いは人一倍強かったようです。
そんな祖母の歌を聴きながら、
あるいは一緒に歌いながら、
小生は育ちました。
それは小学校に入るまで続き、
おかげでその後は歌の好きな
子供として学芸会でソロをやったり
合唱団員に選ばれたりするまでに
なりました。
小生が充実人生コンサートに
関わるようになった経緯は、
JJCのホームページに
書いた通りですが、
いま振り返ってみると、
小生の音楽活動を支えてさせてくれた
数々の人達の大元は、どうやら
この祖母だったようです。
現在、曲がりなりにも皆さんの前で
歌えるのは、祖母のおかげかも
しれません。
幼い頃から専門教育を受けた人もいれば、
小生のようにカマドの傍らで歌を
覚えた子供もいます。
どんな経緯にせよ、この歳になるまで
歌に関わることができたのは
幸せなことです。
子供時代は歌が大好きだった
はずなのに、どこかでやめてしまった人、
声変わりで自信をなくしてしまったり、
仕事が忙しくなったりして
音楽から離れてしまった人、
「充実人生コンサート」は、
そんな方々をいつでも歓迎しています。
※写真(昭和29年撮影)はその頃の実家です。
当時は珍しくなかった茅葺屋根で、
前には畑、後には杉や欅の防風林が
ありました。
充実人生コンサート
統 括 安 納 一 郎
~白髪のテノール~
充実人生コンサートの安納一郎です。
今回は小生がどうして歌を
歌うようになったか、思いつくまま
書かせていただきます。
「オジイサンの思い出話」ですから、
さらりと読み流してください。
小生が生まれたのは昭和22年、
戦後の食料難がようやく
落ち着き始めた頃です。
農村地域なので食べる物に困ることは
ありませんでしたが、まだまだ
貧しい時代でした。
「衣食足りて礼節を知る」
と言いますが、芸術もまた然り、
一部の人を除いて音楽への関心は低く、
近所でピアノがあるのは音楽の先生か
会社の社長の家くらいでした。
小生の家は、戦前、祖父が東京で
教師をしていた頃に買い集めた
大きなチャブ台や外国の辞書などが
あったのですが、なぜか音の
出るものは一つもありませんでした。
その頃は蓄音機なども流行っていた
はずですが、我が家にあるのは
戦前から伝わっている古いラジオだけです。
「大本営発表」とか「終戦の玉音放送」
などを聞いたやつです。
こんなオンボロラジオで
オーケストラを聴いたって、
バイオリンはノコギリの目立て、
ティンパニーはバケツの底を
引っ叩いている、としか
聞こえませんから、家で
クラシック音楽を聴くものは
誰も居りませんでした。
東京で高価な道具や本を
買い集めた祖父が、なぜ楽器や
蓄音機には目もくれなかったか。
それは、祖父が酷い音痴で
歌がまったく歌えず、音楽に関心が
無かったからです。
世間で音痴と呼ばれる人の中でも、
本当の音痴は僅かだといわれますが、
祖父のは自他共に認める正真正銘の
音痴でした。
どんな歌を歌ってもメロディーが
分からない、ほとんど節がないのです。
材木だったら節の無いのが
高級ですが・・・。
小生は、幼い頃に実の父を亡くし、
この祖父を養父として育ちました。
祖父は父親として小生のことを
熱心に教育してくれていたのですが、
ある時、何を血迷ったか
「歌を教えてやる」と言い出したのです。
それも童謡や小学唱歌ではなく
「箱根の山は天下の嶮」とか
「嗚呼玉杯に花うけて」といった
大人の歌です。
その時の小生はおそらく3歳くらいで、
一体どのように教えてもらったのか
記憶にありませんが、中学生くらいに
なって楽譜を見た時に、かなり正確に
覚えていてびっくりしたことがあります。
歌詞は子供なりにまったく意味も
分からず丸暗記したのでしょうが、
問題はメロディーです。
なにしろ祖父の歌から節を覚えるのは
作曲するより難しいのですから、
3歳の子どもにできるはずがありません。
もしかしてオレは天才か?
とんでもない、実は、ここには
陰の功労者がいました。
それは同じく養母として小生を
育ててくれた祖母です。
祖母も東京で教師をしていたので、
ピアノを弾いて子供達に歌わせる
くらいのことはできたようです。
祖父が小生に歌を教えるといった時、
祖母は大いに狼狽したそうです。
祖父の音痴が小生に感染しては一大事。
聞くところによると、小生の
亡くなった実父も相当な音痴だったとか。
これに小生が続くと、安納家は
親、子、孫、三代に渡る音痴の
家系となってしまいます。
それだけは絶対に避けなければ
ならない。
何とか自分の手で正しい歌を
教え直さなければならない。
隠れキリシタンの「経消し」の
ようなものですね。
経消しとは、昔の檀家制度の下で
お葬式には必ずお坊さんを
呼ばなければならない、そのため
葬儀の間、別の場所で密かにお経を
消して改めて死者が天国に行くための
祈りを捧げることだそうです。
そして、ここから祖母の「経消し」
ならぬ「祖父の歌消し」の努力が
始まりました。
祖父から教わったと思っていた
「箱根の山」も「嗚呼玉杯に」も、
実は祖母が教えてくれものだったのです。
当時、田舎では風呂もカマドも
薪で焚いていたので、祖母は
火の番をしながら色々な歌を
歌ってくれました。
多くが戦前の唱歌や童謡でした。
祖母も音楽学校を出たわけでは
ありませんが、教師になった
ばかりの頃、当時の古臭い
文部省唱歌にあきたらず、
「赤いくつ」などの新しい童謡、
当時の学校では「子供の流行歌」
などと嫌っていた歌を、校長らの
反対を押し切って音楽に時間に
歌わせていたというくらいですから、
歌への思いは人一倍強かったようです。
そんな祖母の歌を聴きながら、
あるいは一緒に歌いながら、
小生は育ちました。
それは小学校に入るまで続き、
おかげでその後は歌の好きな
子供として学芸会でソロをやったり
合唱団員に選ばれたりするまでに
なりました。
小生が充実人生コンサートに
関わるようになった経緯は、
JJCのホームページに
書いた通りですが、
いま振り返ってみると、
小生の音楽活動を支えてさせてくれた
数々の人達の大元は、どうやら
この祖母だったようです。
現在、曲がりなりにも皆さんの前で
歌えるのは、祖母のおかげかも
しれません。
幼い頃から専門教育を受けた人もいれば、
小生のようにカマドの傍らで歌を
覚えた子供もいます。
どんな経緯にせよ、この歳になるまで
歌に関わることができたのは
幸せなことです。
子供時代は歌が大好きだった
はずなのに、どこかでやめてしまった人、
声変わりで自信をなくしてしまったり、
仕事が忙しくなったりして
音楽から離れてしまった人、
「充実人生コンサート」は、
そんな方々をいつでも歓迎しています。
※写真(昭和29年撮影)はその頃の実家です。
当時は珍しくなかった茅葺屋根で、
前には畑、後には杉や欅の防風林が
ありました。
充実人生コンサート
統 括 安 納 一 郎
~白髪のテノール~