【JJC通信】童謡・雨降りお月Vol.4 

皆さん、こんにちは。
充実人生コンサートの安納一郎です。


6月6日(水)第5回充実人生コンサートを
開催します。


場所は多摩市唐木田の
「からきだ菖蒲館2Fホール」です。


お近くの方はぜひおいでください。


第5回のテーマは、雨の歌、犬の歌、
それにロシアの歌です。

詳しくはこちらをご覧ください。

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雨が出てくる歌は、文部省唱歌から
歌謡曲、芸術歌曲までたくさん
ありますね。


もちろん外国の曲でも、雨に歌えば、
悲しき雨音、シェルブールの雨傘
などなど・・・。


今回は、その中から、
童謡「雨降りお月」について
書かせていただきます。


「雨降りお月」は、教科書には
あまり載りませんでしたが、
団塊の世代以上のほとんどの人が
知っている歌ではないでしょうか。


よく知られているにもかかわらず、
この歌にはいくつか不可解なことが
あります。


まず題名ですが、「雨降りお月」と
書いてある楽譜と、「雨降りお月さん」と
している楽譜があります。


次に、この歌は一番と二番で旋律が
微妙に異なっています。


芸術歌曲などでは時折見かけますが、
童謡には珍しいのではないでしょうか。


そして、この歌の歌詞も
またちょっと不思議です。


一体どのような情景を
歌っているのでしょうか。


「雨降りお月」は、大正14年に
「コドモノクニ」という子供向けの雑誌に、
野口雨情作詞、中山晋平作曲で、
「雨降りお月さん」という題名で
掲載されました。


この時は一番だけでした。


その後、この歌の続編のような形で
「雲の蔭」という歌が作られました。


この歌の旋律は「雨降りお月さん」
とは部分的に少し違っています。


言葉のアクセントに合わせたためと
いわれています。


後に、この二つの歌は一番、二番の形で、
「雨降りお月」としてレコード化
されました。


現在では「雨降りお月=雲の蔭」と
書かれている楽譜もあります。


それにしても、この歌詞は
どんな情景を歌っているのでしょうか。


お嫁に行くのになぜ一人で
唐傘をさしていくのか、
なぜ雨の中を馬に乗って行くのか、
お嫁に行くのは誰なのか、
お月さんなのか、よく分からない歌です。


通説では、雨情の奥さん
(祖母という説もあります)が、
雨の中をはるばる馬に乗って
嫁いで来た時のことを歌ったと
言われています。


しかし、雨なのになぜお月さんが
出ているのでしょうか。


ここに、もう一つ別の解釈があります。


シンガーソングライターとして
デビューし、現在多方面で
活躍している合田道人氏が、
著書「童謡なぞとき」の中で
書いています。


以下、この説を引用しながら、
小生なりの感想を書いてみたいと
思います。


「雨降りお月さん・・・」の後に
「お嫁に行くときゃ・・・」
とあるので、お月さんがお嫁に行くと
思っている人も多いでしょう。


小生も子供の頃そう思っていました。


でも、そうではなくて
「お月さんのところへ」お嫁に
行くのだとしたら?一体、誰が
お月さんのところにお嫁に行くのでしょう。


少なくとも適齢期の大人の女性ではない、
少女あるいはもっと幼い女の子と
考えるのが自然ではないでしょうか。


それにしても、お月さんのところに
お嫁に行く、とはどういう意味でしょう。


それは別の世界へ行くこと、つまり、
幼くして逝ってしまった
女の子のことではないか・・・。


同じ野口雨情作詞の童謡で、
「シャボン玉」という歌があります。


この中に
「生まれてすぐに、こわれて消えた」
という歌詞があり、これが、
生後一週間程でこの世を去った
長女のことであるという説は、
よく知られています。


実は、雨情は、次女も三歳になる前に
亡くしています。


「雨降りお月さん」が「コドモノクニ」に
発表される少し前の大正13年9月の
ことだそうです。


だとすると、お月さんのところへ
お嫁に行ったのは、雨情の次女と
考えることができると、合田氏は
書いています。


雨情は、次女の死を受け入れることが
出来ず、お月さんのところへお嫁に
行ったと考えることにしたのでしょうか。


小生の勝手な想像ですが、もしかすると、
幼い次女は夜空に輝く月を見て、
「あたし、お月さんのところへ
お嫁に行きたいわ。」


などと言ったことがあるのでは
ないでしょうか。


大人になってお嫁に行くというのは、
昔の女の子の憧れの一つでした。


幼い女の子にとって、当時の家から
家への嫁入りは、今のように好きな人と
一緒になるというのとは
少し違った意味だったのでしょう。


雨情は、大人になることが
できなかった幼子の気持ちを、
この詩に託したのかもしれません。



充実人生コンサートでは、
皆さんに歌って聴いていただく合間に、
その曲ができた経緯や珍しい
エピソードなども紹介しています。


「へえ、そんなイワレがあったのか。」


と、少しでも親しみを感じて
歌っていただければと思います。


なお、今回の休憩時間には「ワイン造り」
野田さんのご尽力でJJCワインの試飲と
ご紹介があります。


JJC「茶遊庵」の案内人 山﨑小夜さんも
ご参加くださる予定です。


どうぞお楽しみに。

充実人生コンサート出欠確認とアンケートのお願い


参考文献1:「童謡なぞとき」、
合田道人(ごうだみちと)著、祥伝社


同2:「コドモノクニ名作選」(下巻)、
アシェット婦人画報社


充実人生コンサート 
統 括 安 納 一 郎 
~白髪のテノール~ 

 

【JJC通信】2017年Winemaking Plan ③カリフォルニアのサンジョベーゼ 

JJCワイン愛好家の皆さまへ、


こんにちは。


さて前回のメールでは、我々が
造るワインは「トスカーナ地方を
代表するサンジョベーゼ種を中心とし、
メルロー種やカベルネ・ソーヴィニョン種を
ブレンドした”スーパータスカン”を
目指している」ということを
簡単に紹介させて頂きました。


今回はイタリア・トスカーナ州ではなく、
米国・カリフォルニア州で造る
「スーパータスカン」は
どのような特徴を持っているかについて
簡単に紹介させて頂きます。


■米国・カリフォルニア州の
 サンジョベーゼ種の特徴

トスカーナ地方のスーパータスカンは、
一般的に「酸が強くタンニン(渋み)が
豊富で長期熟成タイプ」と言われています。


一方、カリフォルニアのワインは
一般的にヨーロッパ
(フランス、イタリア等)で造られる
ワインと比較して、「果実味が豊富」
と言われています。


果実味が豊富でも骨格
(酸やタンニン)が少ないと
のっぺりとした味わいになりますし、
渋みが強くて果実味が感じられない
ワインも避けたいですよね?


今回我々が造るワインは、果実味は
豊富だが、酸やタンニンもそこそこあり、
(のっぺりしてないで)骨格があり
複雑なワインを目指したいと
思っています。


次回は、そんなワインにするために、
どうすればいいのか?について
述べさせて頂きます。


*参考までに2017年の収穫前の
サンジョベーゼ種の写真を
添付させて頂きます
(このぶどうからワインを造っています!)



———————

なお2017年ワインの申込受付は
継続中です!


以下リンクより必要情報を
ご入力頂いた上でお願いたします。


なおワインラベル裏面に
ワイン造り参加者の名前を
記載させて頂きますが、
ご本人の名前ではなく、
贈呈したい人の名前、
ご夫婦/友人の名前等、
ご希望通りに記載可能です。


■ワイン造り募集概要


■申込みフォーム


■ワイン造り紹介Website


*2017年のワインが手元に届くのは
2019年12月を予定しています

———————

JJCワインコーディネーター
野田隆史

 

【JJC通信】投信「実力本位」の時代に新規設定5年ぶり低水準 『山根ちづえの金融ニュース解説』 No.1 

JJCパートナーの山根ちづえです。


私は、金融関係のニュースや
気になった事象について勝手に
つぶやく形のブログを
書いてみようと思います。


まず、第一回目は、少しだけ
自己紹介をさせていただきます。


私は、男女雇用機会均等法の施行直後に
社会に出て、大手証券会社で総合職
という名前の仕事をしていたものです。


始めの20年は、個人営業部門での
投資信託の販売(セールス)を経て
金融法人の資金運用部で投資信託の
運用(トレーダー)に携わり、
その後は米系の運用会社に転職して
クライアントサービスで投資信託の運営
(マネージャー)にかかわるという人生で
その後は、確定拠出年金のコンサルタント等を
したりしながらも投資信託との関係の深い人生です。


現在は、投資信託の販売とは
少し離れたお仕事をしていますが、
依然として確定拠出年金の
企業向けコンサルは続けています。


さて、上記のようなバッググラウンドを
持つ私でありますが、最近では
日経新聞を始め、金融ニュースに
リアルタイムで反応するような仕事は
していないのですが、時々目に
留まる記事があります。


これを取り上げてみる形で私のブログを
進めさせていただければと考えました。


第一回目は、


投信「実力本位」の時代に 新規設定5年ぶり低水準


この記事は、ようやく始まった
投信ビックバンのように
私の視界に飛び込んできて思わず
目を止めてしまいました。


私が新人セールスだったころ、
投信大量設定時代とも言われた
90年代でしたが、証券会社が
大量採用やIT投資て膨らんだ経費を
賄うために、投信の信託報酬や
販売手数料に頼り始めたことが
投資信託の大量発行と乗り換え
営業がスタートするきっかけだったように
記憶しています。


言うなれば、これが第一波。


それ以前の証券会社は、
投資信託などは数が少なく希少で、
買付予約をして購入したものだと
先輩に聞かされたのを思い出します。


当時は投資家向けの情報が少なく
まだまだ一般の個人には閉ざされた
世界だったのだと思います。


その後、銀行の窓販が始まり、
保険商品との競合もはじまります。
これがいわゆる第二波。


当時、外資系の運用会社で
販売会社向けの営業支援をしていたので
その頃の様子は鮮明に覚えています。


とにかく、本業の収益回復が遅れる中、
投資信託の販売手数料が新たな銀行の
収益拡大機会として大きく取り上げられて
いった時代です。


大手銀行の販売力は莫大で、
運用会社としてはなんとか彼らに
商品を下ろそうと必死にセミナーや
営業支援をして各支店までせっせと
営業支援に回っていました。


一方で、今まで定期預金しか
販売したことがない販売員さんに
証券の知識を持ってもらうことは
至難の業、でも収益機会は逃せない
銀行側の事情も手伝い、
あれよあれよという間に銀行窓販による
販売額は伸びて行きました。


結果何が起こったか・・・


最終投資家の皆様へのしわ寄せです。



銀行の窓販には限りませんが、
商品の特性を理解しきらない販売員が、
銀行預金しか知らない投資家に
販売するという事象。


市場が上向きで運用成果が良い時は
問題にはならなかったのですが、
その後起きてきた低金利の円高や
株式市場の長期低迷によって
残念な結果を招いていたことは
記憶に残っています。


その後も、銀行で売りやすい商品の
開発競争が始まり、投資信託の設定は
増加傾向となっていきました。


設定が増えれば各販売会社の
責任販売額も増える仕組みですので、
当然、乗り換え勧誘も
増えていったのでしょう。


正確には時期は覚えていませんが、
これをやめさせようとした金融庁が
本格的な規制に乗り出して
5,6年前にはほぼこの営業手法は
取れなくなっていたと記憶しています。


一般に投資家の期待収益は内外を問わず
概ね5%~10%ではないかと思います。


通貨の信頼が薄い後進国ではこのようには
ならないとは思いますが、先進国では
このような数値に収まるのでしょう。


平均的な個人投資家のリスク許容度からも
このあたりを目指すことになります。


しかしながら、日本の金利はゼロ、
かなり手を加えないと(リスクをとらないと)
この数値には届きません。


そこで外貨建ての商品へと
シフトしてきたのですが、
為替が過去10年で見ても
大きく変動してしまった。


しかしながら、暴れ馬のようだった
ドル円相場も近年落ち着きを見せ始め、
外貨建ての投資信託の収益も
落ち着いたものになっているように思います。


極端な円高はもう過去の物という
コンセンサスが固まりつつあります。


販売員も一息つける状況なのではないでしょうか。


さて、新聞報道に戻りますと、
乗り換え勧誘を本格的に取り締まり
始めた時期と投信設定額のピークは
ややもすると重なって見えますが、
販売会社の戦略がシフトせざるを
得ない状況は規制だけではなかった
と思います。


そこには、ITの進化と共に金融に
関する情報が整備されてきた事や、
投資家の世代交代もあるでしょうし、
人生100年時代と言われてシニア層の
リテラシーが向上している可能性もあります。


確定拠出年金に関しても
報道されていましたが、このIDECOと
NISAの宣伝合戦は私にとってとても
興味深いものでした。


これについては次回に回すとして、
NISAやIDECOが現役投資家層の
金融リテラシーに影響を
及ぼしたことは間違いありません。


思いがけない成果を生んだのかもしれません。


「貯蓄から投資へ」と言った政府の
旗振りもこの二つにお金をかけて
宣伝広告させたことが一番の
成功事例となったのかもしれません。


テレビや広告の力はやはりすごいものですね・・


いずれにせよ、投資信託の設定が減少し、
選別選択ができる範囲の数に
収斂していくことは投資家にとっては
素晴らしいことです。


一方でこれは、運用会社の統廃合が進み
数が減少していくことと全くパラレルに
進んでいきます。


つい最近も、大和証券と三井住友FGの
運用会社が統合が報道されましたよね。


あらたなリストラが金融界で
起きるのかもしれません。


地銀の統廃合も言われ始めて久しいですね。


しかしながら、人出不足の日本労働市場、
ミスマッチの解消さえできれば
悠に吸収されるのでしょう。


リーマンショックの時のような
厳しさはあり得ないと期待しています。


それでは、不定期ながら続きは次回お目に触れます。


山根 ちづえ
じぶん年金コンシェルジュ

 

【JJC通信】旅のお福分け<茶遊庵だより>皐月 

「茶遊庵」の案内人 山﨑小夜でございます。


やわらかな緑と小鳥のさえずりに
誘われて、2泊3日の四国めぐりの
旅にでました。



東京=岡山=高松と早いもので
昼頃には着きました。


それから、「ことでん」の
1日フリーきっぷを買い琴平まで直行。


名物讃岐うどんで腹ごしらえをし、
金比羅宮の階段をお年だからと
言いわけもいいつつ途中で引き返し、
両側に立ち並ぶお店さんで
お茶の干菓子にと阿波和三盆を買いました。



*阿波和三盆糖:徳島と香川県の一部で栽培。
この地方のサトウキビは「甘蔗(かんしょ)」
と呼ばれ背が低い品種です。



1日目の最終見どころ、栗林公園では
根上り五葉松を見、理平焼をみて
宿へと向かいました。



*理平焼:香川県高松市で焼かれる陶器で、
初代高松藩主松平頼重が京都の
陶工森島作兵衛を招き焼かせたお庭焼き。



2日目は高松港から小豆島へ
レンタカーをかり小豆島巡りの始まりは、
エンジェルロード歩き、



なぜか?多いお醬油さん

*小豆島醬油:醬油作りの始まりは
約400年もの昔、当時、小豆島は良質な
塩の産地であり地中海地方によく似た
温暖な気候風土が醬油作りに適し、
海運業が盛んだったことなどから醬油の
島へと発展してきたとのこと。



次はオリーブ公園、高台にあり
眺めは最高、残念ながら
花は咲いていませんでした。


地方の方が、
「日本でオリーブ栽培に成功したのは
小豆島だけ」と鼻高々でしたが、
小豆島産のオリーブはお値段が
良すぎで「お土産」には不向き?かな。



宿に帰り、ツルツル温泉に入り、
なんとも贅沢な1日でした。


3日目の朝の忙しいこと。


大阪城残石記念公園で資料館を見学。



四国フェリーで土庄港から新岡山港に
到着しました。


岡山城と後楽園を散策。


旭川から引いて作り上げた
曲水は見事でした。


この素晴らしい庭園の曲水に
盃を浮かべて詩歌を読み
披講されたのでしょうか。




平成30年 皐月
茶 遊 庵
案内人 山﨑小夜

 

【JJC通信】松本美和子喜寿リサイタルのこと、音楽の恩師H先生のこと(特別寄稿) 

JJCの皆さま


こんにちは、井生俊介と申します。


JJCの伊藤礼子さんは、大学院で
ともに学び、ともに音楽を人生の
礎としている仲間です。


その出会い、ご縁に無限大の感謝
をします。


この度、JJCの音楽を人生のともとする
仲間の皆さまに表記リサイタルのご案内です。


リサイタルにお越しいただける方は
どうぞ私(井生俊介 hoips@nifty.com)
までご連絡ください。


私の音楽恩師H先生は、
今年で七回忌を迎えます。


H先生の秘蔵っ子的存在で
イタリア歌曲の泰斗 松本美和子教授は、
長くイタリアに暮らし、現在は、
日伊の行き来し、ご自身の音楽活動と
後進の指導にあたっています。

ご参考


この度、松本美和子喜寿リサイタルに、
アマチュアの私及び私の音楽仲間に
共演のお申し出をいただきました。


今年はH先生追悼の意味を込めて
H先生の歌曲を私・私の仲間達と
ご一緒したいとのお申し出です。


私自身多くの舞台経験はあるものの
プロ歌手との共演は極めて稀です。


音楽が音楽を超えて祈りとなると
私は信じます。


▽▽▽▽▽
喜寿を記念して 
松本美和子ソプラノ・リサイタル


日 時: 2018年7月11日(水)19:00開演(18:30開場)
会 場: 紀尾井ホール
出 演: 松本美和子(ソプラノ)
共 演: ヴィンチェンツォ・スカレーラ(ピアノ)、
佐藤美枝子(ソプラノ)、椎野伸一(ピアノ)、
慶応ワグネルOB有志(合唱)、Bell'Armonia会
連絡先: 井生俊介 hoips@nifty.com
△△△△△


一方、音楽の恩師H先生ですが、
H先生は、東京芸大音楽学部学部長、
初代新国立劇場オペラ部門の総監督などを
歴任された文化功労賞受賞者でいらっしゃいました。


私は、1978年夏 大学入学直後、
日本最古の音楽団体である
ワグネルソサエティに入部し、
H先生の薫陶を受け、声楽に
ふれることとなりました。


この関係は、先生ご逝去まで
約35年間続きました。音楽を通じて
世界に目を啓くことを再三説かれ、
結果として、私はアマチュアながら、
日本では、上野文化会館、池袋芸術劇場、
ニューヨークのカーネギーホール、
ボストンのシンフォニーホール、
シドニーのオペラハウス、
ザルツブルグ祝祭劇場、
ウイーンの聖ステファン院、
イギリスのケンブリッジ大学
といった箇所で演奏経験を積むことができました。


人との出会いは、時として強烈な
方向転換を強いることがあり、
H先生の出会いは、私を一般の学生から
音楽を友とする若人に変えたようです。


そして今 無限大にH先生への感謝と
音楽への憧憬を感じます。


H先生追悼の意味を込めたリサイタルで
皆さまとご一緒できますなら望外の喜びです。


井生俊介